アクエリアスの中村さんは、東京で歯医者さ
んを営んでいる先生で、ヨットでも、麻美子
が舫いロープを結べずにいた頃に、いつも手
助けしてくれていた、とても親切で優しいお
じさんだった。
「ね、助けに行って上げようよ」
後ろを気にして、ずっとアクエリアスの様子
を眺めていた麻美子が、隆に言った。
「大丈夫だよ、気にしなくても」
隆は、後ろは気にすることなく、前を向いて
ラッコを走らせていた。
アクエリアスの中村さんは、東京で歯医者さ
んを営んでいる先生で、ヨットでも、麻美子
が舫いロープを結べずにいた頃に、いつも手
助けしてくれていた、とても親切で優しいお
じさんだった。
「ね、助けに行って上げようよ」
後ろを気にして、ずっとアクエリアスの様子
を眺めていた麻美子が、隆に言った。
「大丈夫だよ、気にしなくても」
隆は、後ろは気にすることなく、前を向いて
ラッコを走らせていた。
中村さんのアクエリアスでは、スピンネーカ
ーとジブのせいるが絡み合っていた。
「助けに行ってあげないの?」
「自分たちでなんとかするだろうよ」
隆は麻美子に答えた。
麻美子は、ずっと絡まったままのアクエリア
スのセイルを心配そうに眺めていた。
「助けに行ったほうが良くない?」
アクエリアスの中村さんとも、冬の間、隆と
2人だけで乗っていた時に、何回か沖合いで
会ったことがあった。
ヨットのセイルは、メインセイルもジブセイ
ルも基本的に白色のものが多いのだが、スピ
ンネーカーのセイルだけは、赤やら青やら何
色もの色でカラフルに彩っているセイルが多
かった。
レース後半、帰りのコースは、風向き的に追
っ手、船の後ろから吹いてくる風だったため
中村さんのアクエリアスでは、スピンネーカ
ーを上げたのだろう。
そして、スピンネーカーがジブセイルのシー
トと絡みあってしまっていた。
「もうゴールしちゃったんだ」
「速いよね」
隆や陽子たちが、ゴールしたウララの艇を眺
めて、話していた時に、
「あらら、なんかスピンが絡まっているよ」
ゴールとは、反対方向の後ろを眺めていた麻
美子が指差しながら叫んだ。
スピンとは、追い風の際に上げてヨットを走
らせるセイルのことで、正確にはスピンネー
カーと呼ばれるふっくらと丸い形をしたセイ
ルのことだった。
ようやく赤ブイに到達して、ブイを回ってU
ターンして復路に入ったラッコが、ゴールへ
向けて走っていると、ゴールラインで待って
いた地井さんのモーターボートからラッコの
ところにも、
フォーーーン!
と微かにホーンの鳴る音が聞こえてきた。
「お、レース艇のウララがゴールしたな」
「さっき、すれ違った船でしょう、速いね」
隆は、ラッコのステアリングを握りながら、
聞こえてきたホーンの音に反応していた。
ラッコのクルーたちは、すれ違うウララの艇
上で、必死にウインチを回している男性クル
ーたちを眺めて、呟いていた。
「な、レース艇は大変だろう」
隆が、陽子に言った。
「だから、男性の生徒は、ウララとかに振り
分けられて、私たち女性がラッコに振り分け
られたのね」
「わかるだろう、うちのヨットに女性しか振
り分けられなかった理由が」
陽子は、隆に頷いていた。
「まだレースは、終わっていないぞ」
ウララの松浦オーナーは、ラッコの方を見て
笑っていた。
ウララのクルーたちは、まだクラブレースの
真っ最中で、お昼ごはんのサンドウィッチど
ころではなかった。
ウインチにジブシートを巻きつけて、ウイン
チハンドルを回して、引っ張ったり出したり
とセイルトリムに大忙しだった。
「なんか大変そうなヨット」
「力が無いと乗れないヨットなのね」
「サンドウィッチあるわよ」
もうとっくの昔に、クラブレースの順位など
諦めているラッコのデッキ上では、ピクニッ
クテーブルを広げて、麻美子の作ってきたサ
ンドウィッチをお皿にだし、ランチパーティ
ーの真っ最中だった。
「お帰りなさい!」
隆たちラッコのクルーたちは、復路のコース
を戻って来て、すれ違ったウララのクルーた
ちに、サンドウィッチ片手に笑顔で手を大き
く手を振って挨拶していた。
結局、クラブレースでのラッコの順位は、後
ろに中村さんのアクエリアス、ラッコと同じ
パイロットハウスの付いた重たいクルージン
グ艇を1艇従えての堂々と最後尾、ブービー
でゴールすることになりそうだった。
「麻美子、お昼ごはんにしようか」
まだ、ラッコは一番先にある赤ブイまでも到
達していないというのに、一番先頭を走って
いたウララは、既に赤ブイを回ってUターン
して、復路のコースをゴールへ向かって走っ
て戻ってきていた。
「それは仕方ないよ」
隆は、麻美子たちに答えた。
「ウララとかは、レースで速く走るために、
うちのヨットみたいな重たい家具を船内から
排除して、軽い内装にして作られているのだ
から」
隆は言った。
「うちのヨットとは違って、ともかく速く風
で走れるようにするために、コストをかけて
作られているヨットだからね」
「ヨットって、それぞれ造りが違うのね」
「それは無理だよ。うちのラッコは、船内に
フィンランドの木材が多量に使われていて、
他のヨットよりも遥かに重たいヨットなんだ
から」
隆は、あっという間に最後尾に追いやられて
しまって、残念そうな顔をしているクルーた
ちに言った。
「ラッコの後ろって、もう中村さんのアクエ
リアス1艇しかいなくなっちゃったね」
麻美子は、ラッコの後ろを振り返って、確認
しながら言った。
しかし、しばらく走っていると、ウララがラ
ッコに近づいてきて、そのまま、ラッコのこ
とを追い抜いて行ってしまった。
ウララだけではなかった。
他のヨットたちも、どんどんラッコに追いつ
いてくると、次々と追い抜かれていき、気づ
くと一番最後尾から2番目を走っていた。
「せっかく1番だったのに、どんどん追い抜
かれちゃったよ」
「せっかく1番だったのに、なんか皆に追い
抜かれてしまったよ」
それでも、ヨット歴だけは長かったのとジュ
ニアヨット教室時代は、他のヨット教室の生
徒たちとレース練習ではよく競い合って乗っ
ていたため、ヨットレースの技術は持ち合わ
せていた。
「ね、もしかして、このレースってラッコが
一番で走っている?」
瑠璃子が、隆に聞いた。
ラッコのクルーたちは、自分たちラッコのヨ
ットが、他のヨットよりも1番先頭で走って
いることに気づいて、口々に話していた。
隆は、地井さんのモーターボートから鳴った
スタートの合図を知らせるホーンと同時に、
どのヨットよりも早く一番でスタートライン
を越えて、スタートしていた。
隆のヨット歴は長く、隆が中1の時に、ここ
の横浜マリーナで開催されているジュニアヨ
ット教室に参加していた頃まで溯る。
隆は、ジュニアヨット教室ではレース練習も
していたが、ヨットレースはあまり好きでは
なく、ヨットの乗り方は常にクルージング派
のセーラーだった。
地井さんの27フィートのモーターボートが
今日のクラブレースのコミッティ艇を務めて
くれていた。
コミッティ艇上では、10分前、5分前に旗
を掲揚してくれて、その旗でレースのスター
ト時間がわかるようになっていた。
そして、スタートとともに掲揚していた旗を
下ろして、レースはスタートした。
「うちの船は、このまま風下側のブイからス
タートしよう!よし、スタートラインぴった
りでスタートできたぞ!」
「クラブレースのコースってわかったの?」
隆は、ラッコのステアリングを操船しながら
麻美子に質問した。
「金沢沖の赤ブイを反時計回りで回って」
「そうね」
「で、沖合いの黄色ブイを時計回りに回る」
「確か、そうだったわね」
「それで戻ってきたら、そのままゴール」
隆に質問されて、麻美子は相槌ちを打ってい
るだけで、陽子が隆に詳しく説明していた。
「麻美子は、全然わかっていないんだ」
艇長会議を終えてラッコに戻る道すがら、麻
美子は陽子に聞いた。
「私も、ヨットレースなんて初めてだし、よ
区わからないこともあったけど、大体は前後
の文脈で想像がついたかな」
陽子は、麻美子に答えた。
はあ、この子ってすごい、あの一瞬の会議で
そこまで理解できちゃうんだと陽子に脱帽し
てしまった麻美子だった。
「私は歳かな、全然理解できなかったわ」
麻美子は、陽子に苦笑してみせた。
「最初は半時計回りで回るけれども、次のブ
イは時計回りで回るのですね」
陽子は、松浦オーナーの説明する内容を理解
して、松浦オーナーにちゃんと確認も取って
いた。
「すごいな、陽子ちゃん」
麻美子は、自分が全く理解できていないヨッ
トレースの説明をしっかり把握している陽子
に感心していた。
「松浦さんの話していることを、よく理解で
きていたわね」
横浜マリーナでクラブハウスを開催するとき
は大概、ヨットレースに一番詳しいウララが
陣頭指揮を取ることが多かった。
「本日のクラブレースのコースですが」
松浦オーナーが、クラブレースの開始時間や
コースなどについて、今日のクラブレースに
参加するヨットオーナー達に説明していた。
「なんか説明が難しいな」
説明の中に、ヨットレースの専門用語が多く
出てきて、麻美子には話の内容がほぼ理解で
きないでいた。
「2人が参加してる間に、うちらは出航準備
しておくよ」
クラブハウス
「それじゃ、艇長会議を始めます!」
ウララの松浦オーナーが、艇長会議の進行役
を買ってでていた。
うちの横浜マリーナでは、本格的にヨットレ
ースをやっているヨットといえば、松浦オー
ナーのウララぐらいしかいなかった。
ウララが、ヨットレースに関してはマリーナ
で一番詳しいヨットだった。
「9時からクラブハウスでクラブレースの艇
長会議だってさ」
麻美子は、マリーナ事務所で聞いてきたこと
を隆に報告した。
「じゃ、麻美子が艇長会議に出て来てよ」
「え、私が?無理だよ、私ってラッコの艇長
じゃないし」
「大丈夫。陽子が頭いいから、陽子と一緒に
艇長会議に出て話を聞いてきなよ」
麻美子は、隆に言われて、陽子と一緒にクラ
ブハウスで始まる艇長会議に出席した。
「今週は、クラブレースがあるから参加して
みようか」
隆は、ラッコのメンバー皆に提案した。
「まだまだヨット初心者で、レースなんて出
場できるまで上達できていないよ」
「大丈夫だよ。うちの横浜のマリーナのクラ
ブレースは、本格的なレースではなくて、う
ちのマリーナに保管されているヨットだけの
内輪なクラブレースだから」
隆は、不安そうな瑠璃子に説明した。
「それならば大丈夫かな」
「伊豆七島って、どこらへんまで行くの?」
「そうだな。まだはっきりとは決めていない
けど、大島、新島、式根島ぐらいまでは行き
たいとは、思っている」
隆は、陽子に答えた。
「新島って、夏はすごい人気みたいよね」
「そうなの?」
「うん、なんか高校生とかが多くて、原宿み
たいな店がたくさん出店されるらしいわよ」
「ええ、なんか楽しそう」
瑠璃子が言った。
「伊豆七島まで、このヨットで行けるの?」
「伊豆七島ぐらいは楽に行けるさ。このヨッ
トならば、行こうと思ったら、伊豆七島どこ
ろか世界中どこへだって行けるさ」
隆は、瑠璃子に答えた。
「それじゃ、今から夏休みに向けて会社の
を貯めておかなくちゃ」
瑠璃子が言った。
「私、会社の有給休暇は使わずじまいで、け
っこう貯まっているから大丈夫」
年齢的にも勤続年数の長い雪が言った。
麻美子は、陽子と笑っていた。
「海で魚とか釣れたら、魚を野菜と一緒にオ
ーブンで焼くのも簡単で良いかも」
陽子が、麻美子に料理を提案した。
「夏になったら、1週間ぐらい使って、伊豆
七島にクルージングしに行くから、その時、
海に釣竿を垂らして、魚を釣ろう」
隆が、陽子に言った。
「そしたら、その魚をオーブンで料理したら
美味しく食べれると思うわ」
陽子は、隆に話していた。
陽子は、自分が焼いたミートパイの味を、皆
が褒めてくれるので、嬉しそうだった。
「オーブンって、こういう使い方するものな
んだね。私も、ラッコにオーブンが付いてい
るのは知っていたけど、どういう風にどんな
料理を作ったら良いかわからなかった」
麻美子は、陽子に言った。
「このヨットって、海外製なのよね。たぶん
ヨーロッパとかだと、オーブン料理ってメイ
ンになるから付いているんだと思う」
「なるほどね、隆には宝の持ち腐れね」
ラッコのキッチン、ギャレーには、せっかく
立派な調理設備が一式揃った台所が完備して
いるというのに、それらを、麻美子が使うこ
とは、全くなかった。
家で作って、タッパーに入れて持って来たも
のを、せいぜい温めるぐらいだった。
「ラザニアと一緒にミートパイも焼いたよ」
陽子は、ラッコのギャレーに付いているガス
オーブンを使ってパイを焼いていた。
「先週、ここのガスコンロの下にオーブンが
付いていたから、焼いてみたくなったの」
隆たち横浜マリーナに停泊しているヨットた
ちは、お昼の時間になると、よくここの貯木
場にヨットを停泊して、皆でキャビンの中で
お昼ごはんを料理して、船で飲んだり食べた
りしていた。
「本当に、今日は豪華な料理だな」
隆は、改めてメインサロンのテーブルの上に
並べられた料理に感嘆していた。
これまでのラッコのお昼ごはんといえば、麻
美子が自宅で作ってきたタッパーに入った料
理をお皿に盛り付けるだけだった。
横浜ベイサイドマリーナに生まれ変わってか
らは、お昼を食べようと、マリーナ内のポン
ツーンにヨットやボートを停泊すると、マリ
ーナ事務所に停泊料を払う必要があった。
「舫いロープを取りますよ」
が、横浜ベイサイドマリーナが完成する前の
貯木場だった頃は、横浜マリーナに停泊して
いる隆たちのヨットが、お昼休憩で貯木場内
に出入りして、そこに置かれているイルカの
プールにヨットを停めようが、誰にも停泊料
なんか支払う必要が無かった。
ラッコがイルカのプールに横付けしてから、
しばらくすると同じ横浜マリーナにヨット
を保管している仲間のヨットたちも、次々
とやって来て、イルカのプールに横付けし
ていた。
ちなみにイルカのプールが置かれている貯木
場は、横浜の金沢区にある周りを岸壁で囲ま
れた港内で、この場所が後に、横浜ベイサイ
ドマリーナというアウトレットモールも併設
された巨大なヨットハーバーに生まれ変わる
こととなるのだった。
お昼の時間、ラッコは、いつも貯木場に置か
れている元横浜博覧会のイルカのプールに横
付けしていた。
ラッコがイルカのプールに横付けし終わると
キャビンの中では、パイロットハウスの一段
下にあるキッチン、ギャレーに女性クルーた
ちが皆集まり、お昼ごはんを作り始めたのだ
った。
「さあ、お昼ごはんを作りましょう」
ちなみにラッコとは、隆が所有しているセー
リングクルーザーの船名だ。
今日のお昼ごはんは豪華だった。
「ただのパスタじゃないんだ、ラザニアまで
付いているの」
隆は、ラッコのメインサロンのテーブルに並
べられた料理を見て驚いていた。
「今日のお昼は、私が作ったんじゃないよ」
「麻美子の作った料理じゃないってことは、
一目で見てわかった」
隆は、麻美子に言った。
「だって、いつもより豪華だもの」
「それは、どういう意味かな」
「麻美子とは別に付き合ってはいないよ」
「ほら、なんか大学生の頃から相性が良かっ
たんで、いつも一緒にいただけなのよ」
麻美子は、皆に答えていた。
「ふーーん」
瑠璃子が言うと、皆も、ふーんって感じで頷
いているのだった。
「それじゃ、貯木場に船を入れて、お昼ごは
んにしようか」
隆は、ヨットを貯木場に入港させた。
「セイルも下ろすよ」
クルージングヨット教室の一環で、ヨットに
乗りに来ているというのに、ヨットの操船方
法の説明の時も、このぐらいは盛り上がって
くれよと隆は思っていた。
「でも、隆さんとお付き合いはしているので
すよね?」
「私たちって、お付き合いなんかしていたこ
とあったっけ?」
麻美子は、隆に聞いてみた。
「ないない」
隆は、首を大きく横に振った。
「それって、ひとつ屋根の下じゃない」
「もう夫婦みたいなものじゃないですか」
皆は、隆と麻美子の話で、デッキ上で大いに
盛り上がっていた。
さっきまで隆がヨットの操船方法について説
明していたときは、こんなには盛り上がるこ
となど全く無かったのに、盛り上がり方が雲
泥の差だった。
「やっぱ、もう2人は夫婦っすね」
「確かに!ぜったいそうだね」
皆は、そう結論づけていた。
隆は、陽子に答えていた。
「うちのお父さんが輸出入の貿易商で日本と
サンフランシスコに拠点があって、今は弟が
サンフランシスコの事務所に赴任しているか
ら、弟のいた部屋が余っているのよ」
麻美子がつけ加えた。
「それで、あまり夜が遅くなると、麻美子の
弟の部屋に泊めさせてもらってるの」
隆が、皆に言った。
「ただ、それだけの事なんだよ」
隆が付け加えた。
「麻美子さんって中目黒に住んでいるの?」
「隆さんと麻美子さんって、同じ会社で働い
ているんですよね」
皆は、隆と麻美子へ質問攻めになった。
「隆さんって、いつも会社の仕事が終わると
麻美子さんの家に行って、夕食を食べている
んですか」
「麻美子のお母さんがすごく料理上手の人で
さ、田舎から都会に出てきて一人暮らしして
いる俺の栄養とか食べるもののことを心配し
てくれて、作ってくれてしまうんだよ」
の」
麻美子が陽子に答えた。
「ええ、麻美子さんって、ぜったい隆さんの
奥さんだと思っていた!」
「口げんかの仕方とか、話し方とか完全に夫
婦の会話だったものね」
ラッコの女性たちは、コクピットで口々に話
し始めた。皆、さっきまでのヨットの操船方
法の話をしているときとは明らかに違うテン
ションで、楽しそうに隆と麻美子の話で盛り
上がっていた。
「夫婦げんかはしないでください」
陽子は、麻美子と隆のことをなだめていた。
「夫婦?」
「だって、まるで奥さんなんだもの」
陽子は、ラットを握っている隆の横の空いて
いる場所に腰掛けながら、隆に言った。
「え、勘弁してよ。麻美子は、別に奥さんじ
ゃないよ。ただの大学時代の同級生」
隆は、陽子に答えた。
「え、結婚していないんですか?」
「していないわよ。夫婦でもなんでもないも
コクピットに戻ってきた麻美子に、隆が注意
していた。
「ロープがだめで、ヒモがだめならば、一体
なんて呼んだらいいのよ」
「シート。ヨットでは、ロープのことはシー
トと呼ぶようにしよう」
「シート?なんか腰掛けたくなってしまうよ
うな名前なんだけど」
麻美子は、コクピットの座席に腰掛けながら
隆に言い返していた。
「めちゃ夫婦漫才なんだけど」
皆よりも少しだけヨットの乗船経験がある麻
美子が皆に指示を出していた。
「麻美子も、ヨットではロープっていう言い
方は辞めようか」
コクピットで、操船用のステアリング、ラッ
トを握りながら、隆は麻美子に注意した。
「そっちの赤いヒモを引っ張ってくれる。陽
子ちゃんは青いほうのヒモを引いて」
隆がロープと呼ぶなというので、麻美子はロ
ープのことをヒモと呼んでいた。
「ヒモって呼び方もおかしくないかい」
今回は、以前のように、ゆみと良明が廊下を
追いかけっこすることもなかった。
「あ、猫!」
玄関に入ると、2匹の猫が2人のことを出迎
えてくれていた。
良明とは、面識があるらしく、灰色の猫の方
が良明に撫でられようと近寄ってきた。
「かわいい猫」
ゆみは、もう1匹いる白い猫の方を撫で
てあげようとしゃがんだ。
「ほら、こっちにおいで」
ゆり子先生とゆみは、良明が開けておいてく
れたエレベーターの中へ一緒に乗りこんだ。
「本当に5階であっているの?」
ゆみは、前に良明の家へ行った時に、エレベ
ーターで追いかけっこした時のことを思い出
して、良明に確認した。
「あっているわよ」
ゆり子先生は、ゆみに答えた。
「はい、着きましたよ」
ゆり子先生は、5階で降りると、目の前のド
アの鍵を開けた。
「良明君だって1回しか来たことないのに」
ゆり子先生は呟いた。
「中に入ってしまったよ」
「あそこが先生の家だからね」
ゆり子先生は、ゆみに言った。
「良明君って、先生の家を覚えているんだ」
「ついこの間、遊びに来たばかりだからね」
ゆり子先生は、ゆみと話していた。
「はい、ありがとう」
ゆり子先生は、エレベーターのドアを開けて
待っていた良明にお礼を言った。
「さあ、次の駅で降りるわよ」
ゆり子先生は、2人を連れて電車を降りた。
「先生の家って、この駅から近いの?」
「うん、駅を降りたらすぐよ」
ゆり子先生は、電車を降りると、階段を上が
って地上に出た。地上に出ると、良明は、先
生の手を離して、2人のずっと前、先頭を走
っていき、アパートメントのエントランスか
ら中に入ってしまった。
「よく覚えているわね」
ゆり子先生は、良明の記憶力に感心した。
「ほら、おもしろいでしょう」
中山先生は、2人に電車が線路を走っていく
姿を窓から見せてあげていた。
良明は、嬉しそうに電車が進んでいく線路を
眺めていた。
「ほら、これから地下に入るからね」
中山先生が言うと、今まで地上の高架橋の上
を走っていた地下鉄が、マンハッタンに入る
手前から地下のトンネルの中へと突入してい
ったのだった。
「周りが真っ暗になった」
「地下鉄の中では静かにしましょうね」
その前から大人のゆり子先生の手を握ってい
たゆみのことを、さすがニューヨークの地下
鉄の危険性を理解していると感心して眺める
ゆり子先生だった。
「お行儀よくしなきゃだめよ」
ゆり子先生は、2人に告げると、やって来た
電車に乗りこんだ。
「一番前に乗りましょうか」
ゆり子先生は、2人を連れて、電車の先頭車
両、一番前に連れていった。
良明は1人先頭を歩いていたが、ニューヨー
ク暮らしの長いゆみは、大人のゆり子先生の
手を握って、一緒にくっついて歩いていた。
「良明君、そんな先に行かない方がいいよ」
ゆみは、地下鉄のホームを走っていく良明に
声をかけた。
「良明君、こっち来なさい」
ゆり子先生が良明のことを呼び戻すと、良明
の手も握りしめた。
「地下鉄を降りるまでは、ずっと先生と一緒
にいましょうね」
ブロードウェイの地下鉄は、メインストリー
ト通りの上空に線路があって、そこを走って
いた。マンハッタンに入るまでは、地上の、
しかも上空を走っているのだった。
地下を走るのは、マンハッタンの街中に入
ってからだ。
「それでは、地下鉄に乗りましょう」
ゆり子先生は、2人を連れて地下鉄の改札で
トークン(地下鉄用コイン)を入れると、改
札を通り抜けて駅のホームへと上がった。
「良明君、そんなに先へ行かないの」
「良明君、ゆみちゃん」
ブロードウェイの地下鉄の駅に上がる階段の
前で、ゆり子先生が待っていた。
「今日は、宜しくお願いします」
隆は、ゆり子先生に挨拶した。
「それじゃ、後で夕方、迎えに行くから」
隆は、ゆみに伝えると、良明のお母さんと一
緒に車で帰ってしまった。
「行きましょうか」
ゆり子先生は、ゆみと良明を連れて、地下鉄
の駅へと歩き出した。
ブロードウェイには、学校で必要な文房具が
なんでも揃っている大きな文房具店や日本食
のスーパーがある便利な街だった。
でも、ゆみはあまり好きではなかった。
「良明、男の子なんだから、ゆみのことをし
っかり守ってやってくれるか」
隆は、良明に言った。
ブロードウェイは何でも揃う便利な街だが、
治安があまり良い街ではなかった。
「良明は、お兄さんなんだからね」
良明のお母さんも言った。
ブロードウェイのメイン大通りには、道路の
上にマンハッタンまで走っている地下鉄の線
路があった。
地下鉄に乗るためには、大通りにある歩道橋
を上がって、そこから駅のホームへ上がって
地下鉄に乗るのだった。
ヤンキースタジアムにもほど近い、ブロード
ウェイの大通りは、道路の左右が商店街にな
った賑やかな繁華街だった。
「良明君、一緒に歩こう」
ゆみは、良明の手を握って緊張していた。
「先生の家は、マンハッタンのセントラル・
パークの近くだよ」
「先生、地下鉄で通っているものね」
ゆり子先生は、ゆみたちの通うPS24とク
イーンズの日本人学校に、ニューヨークの地
下鉄、サブウェイで通勤していた。
「あ、ちょうどそこのパーキングメーターが
空いているよ」
隆は、ゆみの見つけた場所に車を停めた。
リバデールの丘を下りきった先にあるのがブ
ロードウェイだった。
「お兄ちゃんが、先生ん家まで連れて行って
くれるの?」
ゆみは、良明と一緒に、車の後部座席へ乗り
込みながら、隆に聞いた。
「いや、ブロードウェイまで送ってやる」
隆は、ゆみに返事した。
ゆり子先生とは、ブロードウェイで待ち合わ
せしていて、そこから先生ん家までは、地下
鉄に乗って行くことになっていた。
「先生ん家って遠いの?」
ゆみは、隆に聞いた。
「LINE?」
隆が、良明のお母さんに聞いた。
「久しぶりに、由香ちゃんともお話したわ」
「え、由香と話したんですか」
「ええ」
良明のお母さんは、隆に頷いた。
「良明君、早く行こう」
ゆみは、良明と一緒に、自分の家の玄関を出
ると、エレベーターに向かって歩いていた。
「隆君も、はっきりしてあげないとね」
良明のお母さんは、隆と歩きながら呟いた。
「ゆみ、行くぞ」
「はい、お兄ちゃんちょっと待ってよ!」
ゆみと良明のお母さんは、ゆみと隆の部屋か
ら出てきた。これから、お出かけするために
良明のお母さんが、ゆみの長い髪をブラッシ
ングしてくれていたのだった。
「良明がお待ちかねだぞ」
隆は、髪のブラッシングを終えて出てきたゆ
みに言った。今日は、中山先生と約束した先
生の家へ遊びに行く日だった。
「LINEもしていたのよね」
「ゆみのお姉さんみたいだな」
「お姉ちゃんじゃなくてお母さん」
ゆみが小声で呟いて、由香とにっこりウイン
クしていた。
「隆さ、私なんだけど、今年の夏休みは、そ
っちへ遊びに行くかもしれない」
「え、そうなの?」
「そうだよ!来るんだよ」
ゆみも既に知っているらしくて、嬉しそうに
隆へ報告していた。
ゆみも、学校で会ったことは、全てまず由香
に話してから、夕食の時に隆へ伝えるように
なっていた。
「ただいま」
玄関で鍵を開ける音がして、隆が会社から帰
ってきたみたいだ。
「隆、帰ってきたの?」
由香は、ゆみとLINEで話していた。
「由香、またゆみと話していたんだ」
「毎日、お話しているものね」
ゆみは、由香に頷いた。
絶交と言っていた由香だったが、ゆみの様子
が気になって、数日後には、隆とLINEし
ていた。そして、ゆみが話せるようになると
それからは、毎日のように、ゆみとLINE
するようになっていた。
「ねえ、大丈夫?なんか困ってない?」
由香は、ゆみとLINEで話していた。
「クラスに日本人のお友達ができたのよ」
「そうなの、良かったじゃないの」
由香は、毎日のように、ゆみと学校であった
ことや何でも話すようになっていた。
「ねえ、お母さんどう思う?」
由香は、機内でお母さんに話しかけた。
「おまえは、日本の大学行けよだってさ」
「そうね、あなたもニューヨークに残っても
良かったのにね」
由香の母は、由香に言った。
「由香だって残りたかったんでしょう」
「全く!隆ってあいつさ」
由香は、機内にいる間ずっと機嫌が悪かった
「もう、あいつとは絶対に話さないんだ、絶
交よ!あいつとは、絶対に会わない!」
「由香は、日本に帰って大学へ行けよ」
「この子は私にとっても、大切な子供のよう
なものだし、私は別に隆とさ」
由香は、ゆみを抱っこして、隆に言った。
「おまえは、大学へ行ける環境があるんだか
ら、ちゃんと進学しなきゃだめだよ」
隆は、由香に言った。
「俺のいけなくなった大学に行けよ」
隆って優しいんだけど本当鈍感だよな、そう
思いながら、由香は、家族と一緒に日本へ帰
国する飛行機に搭乗したのだった。
しかし、隆の大学進学の夢は叶わなかった。
「俺さ、日本の大学は行かない!」
隆は、由香に伝えた。
「そうだね、私もニューヨークに残るよ」
由香は、生まれたばかりのゆみを抱きかかえ
ながら、隆に言った。
「何を言っているの?」
「隆が働いている間、この子を育てていく人
も必要でしょう」
「俺たち、夫婦じゃないんだからさ」
隆は、由香に言った。
「俺が日本の大学に行ったら、お母さんは、
その子を1人で育てることになっちゃうね」
「何を言っているのよ、この子には、お父さ
んだっているでしょうが」
隆の母は、大きなお腹を優しく撫でながら、
隆に言った。
「向こうからメールとかするね」
そして、母はニュージャージー州の病院で妹
を出産し終えた退院の日、病院前の交通事故
で父と共に亡くなってしまった。
「俺さ、日本の大学は行かない!」
「それで、大学に合格したなら、日本の大学
でしっかり勉強してきなさい」
母は、隆に言い聞かせた。
「この子は、お母さんがしっかり育てるから
大学は夏休みも長いんだから、夏休みにでも
この子に会いに、ニューヨークに帰っていら
しゃいよ」
その後、隆も由香と同じ慶應大学の経済学部
を受験してみることとなった。
そして、2人とも大学への合格が決まった。
「すごいじゃない!おめでとう!」
「ひどいだろう、由香って」
隆が、母に言った。
「自分のことじゃないからと思って、とりあ
えず受験だけしてみたら良いとかって」
母は、大きなお腹を抱えながら大笑いした。
「由香ちゃんの方が、あんたよりもずっとサ
バサバして、はっきりしていて男っぽいじゃ
ないの。あんたは、変なところでいつも躊躇
するんだから」
母は、隆に言った。
「あんたは、受験してきなさい」
「俺がさ、弟がほしいな、弟が無理なら妹で
もいいって言って、それで出来た子だし」
「だからって。諦めるんだ」
由香は、隆に聞いた。
「とりあえず、隆の頭じゃ受験に受かるかど
うかもわからないし、受験だけしてみたら良
いんじゃないかな」
「そうだよな」
隆は、由香に答えた。
「って、由香ちゃんに言われたの?」
母は、隆に聞いた。
「もう隆だって高校を卒業したら大学生なの
だから、親元離れて独立しなさいよ」
「そうなんだけどさ」
隆は、由香に答えた。
「うちの母親、もうじき出産するんだよ」
「だから?」
由香は、隆に言った。
「子供が生まれるから、母親を1人こっちに
残して、日本へ帰れないって?」
「そうじゃないんだけどさ」
隆は、うまく言い出せずにいた。
「由香はラッキーだよな、卒業と家族の帰国
が同時だから、卒業したら家族と日本に帰れ
ば良いのだから」
隆は、由香に答えた。
「俺が卒業しても、家族は帰国じゃないんだ
よ。父親は、まだニューヨーク支店での勤務
が残っているし」
隆は、由香に答えた。
「だから、隆だけ進学のため帰国すれば良い
だけでしょうが」
由香は、隆に言った。
隆のお父さんは、いま隆が働いている日本の
大手商事会社のニューヨーク支店で勤務して
いた。由香のお父さんは、その商事会社の取
引先でもある中小の貿易会社を経営する社長
さんだった。
「将来、父の会社は弟が継ぐんだけど」
由香は、同級生の隆と話していた。
「私も父の会社で働きたいし、経済の勉強し
たいから日本で大学の経済学部へ進学する」
「それ良いよな、俺も日本の大学で、経済学
に進みたいな」
ゆみが生まれる少し前、隆はクイーンズの日
本人学校に通う高校生だった。
「隆は、まだ進路決まらないの?」
「ああ」
隆は、由香に答えた。
「隆も、商事会社に就職したいのよね。だっ
たら経済の勉強するのが良いって」
「それはそうなんだけどさ」
隆は、由香に答えた。
「由香は、卒業後と同時期に、由香の家族も
日本への帰国なんだろうけどさ」
ゆみは、いつも学校から帰ると、家には犬の
メロディしかいなかった。隆は、会社で働い
ているから、家にはいない。
「ただいま、メロディ」
ゆみは、メロディに言った。
隆は、まだ会社で仕事中なので帰って来てい
ない。隆が帰って来るまでの時間は、パソコ
ンでLINEを起ち上げながら、家で勉強し
たり、夕食の準備をしていた。
ゆみのLINEの相手は、日本にいる由香お
姉ちゃんだった。
「図書室で騒いじゃったの」
ゆみが、隆に言った。
「図書室で騒いだって、それはダメだろう」
隆が、ゆみのことを怒ろうとすると、
「それで、さっきLINEで、由香お姉ちゃ
んにたくさん怒られちゃったの」
ゆみが言った。
「そうか、由香にもうしっかり怒られたのだ
ったら、俺はもう敢えて言わないけど、今度
からやったらだめだぞ」
隆は、ゆみに言った。
「由香お姉ちゃんに聞いたの?」
「さっき、夕方にLINEした」
隆は、ゆみに言った。
「それで、いっぱい宿題もらったんだって」
「そうなの、分厚い本を1週間で全部読まな
いとならないの」
ゆみは、隆に言った。
「さっきも、由香お姉ちゃんとLINEしな
がら、一緒に読んでいたの」
「なんで怒られたんだ?」
隆は、ゆみに聞いた。
「ヒデキと男の子同士で仲良くなるよりも、
先に同じクラスのおまえと仲良くなった方が
良いかもってさ」
「うん!だって私たちお友達だし、クラスメ
ートだもの」
ゆみは、隆に大きく頷いた。
「それはともかく、今日は学校で先生に怒ら
れたんだって?」
隆は、ゆみに聞いた。
「うん」
ゆみは、隆に答えた。
「そうだったんだ」
ゆみは、隆に答えた。
「それじゃ、私は春子お姉ちゃんと行くから
良明君は、ヒデキ君と行ってきていいわよ」
「でも、今度の週末におまえと良明で先生の
家に行くことになったから」
隆は、ゆみに言った。
「そうなの?」
ゆみは、隆に聞いた。
「中山先生が、良明とおまえが行く方が、ヒ
デキと行くよりも良いかもってさ」
「あのさ、おまえが先生の家に行くのか?」
「え?」
夕食の時、ゆみは兄の隆に聞かれた。
「ゆり子先生の家に、良明とおまえが遊びに
行くのか?」
「え、うん!」
なんで、今日学校であったばかりのことを隆
が知っているのか、ゆみは不思議だった。ま
ださっき、由香にしか話していなかった。
「あれは、良明がヒデキと仲良くなるために
ゆり子先生が誘ったんだぞ」
「それは、そうですよね」
ゆみは、先生に返事した。
「良明君、来れますよね?」
先生は、良明に聞いたが、良明は黙ったまま
立っていた。
「英語が、まだわからないのかな」
「そうみたい、私が迎えに行って、こっちに
連れてきます」
ゆみが慌てて先生に答えた。
たぶん英語がわからないのでなく、人見知り
で黙っているんだろうと、ゆみは思った。
5年生のクラスは、生徒によってクラスをグ
レード分けしていて、アスター先生のクラス
は優等生のクラスだった。
ヒデキたちのいるロールパン先生のクラスは
一般的なクラスだった。
樺村たちのいるシュタイン先生のクラスは、
劣等生のクラスだった。
ロールパン先生のクラスでは、授業終了でそ
のまま帰宅で良かったが、アスター先生のク
ラスは、ちゃんと自分のクラスの授業にも出
なさいと、先生は、ゆみに伝えた。
「午後は、ミスタールビンの授業だけじゃな
いのよ」
先生は、ゆみに言った。
今まで、ミスタールビンの授業を受ける日本
人生徒は、ヒデキたちのロールパン先生のク
ラスが多かった。
今回初めて、ゆみたちのいるアスター先生の
クラスに良明が入って、ミスタールビンの授
業に参加となった。
ロールパン先生のクラスでは、授業が終わっ
た日本人は、そのまま終了で良かった。
「ゆみちゃんなら出来るでしょう、罰なんだ
から頑張ってね」
「あのう、先生、良明君なんだけど」
ゆみは、先生に言った。
「来週は、ミスタールビンがあると思うの」
「ミスタールビンは40分だけよね、終わっ
たら、こっちに来れるわよね」
先生は、ゆみに告げた。
「ミスタールビンの授業を受けている日本人
の子たちだけど、授業終わるとそのまま解散
で下校している子が多いけど」
「先生、ごめんなさい」
ゆみは、良明を連れて、ライブラリーの先生
の前で謝っていた。
「わかった、今度から図書室では静かにね」
先生は、ゆみと良明に言った。
「その代わり、ゆみちゃんはこの本、良明君
はこっちの本を読んで来週までに感想文ね」
先生は、ゆみにはいつもより分厚い評論書を
渡した。良明には、挿絵が多く入った童話の
本を渡した。
「うわ、こんな分厚い難しそうな本」
「あ、授業終わった」
授業の終わりを告げるベルが鳴った。
「さあ、2人とも先生に謝って来ないと」
ゆり子先生は、ゆみと良明に言った。
「うん、良明君行こう!」
ゆみは、良明の手を引いてライブラリー室に
戻っていった。
「あの2人の方が、もしかしたらヒデキ君よ
りも家に来るの良いのかもしれないな」
ゆり子先生は、2人の後ろ姿を眺めながら考
えていた。
「え、ゆみちゃんが来るの」
ゆり子先生は、ゆみに聞き返した。
「ゆみちゃんは、また別の日に春子ちゃんや
智子ちゃんと先生の家にいらしゃいよ」
ゆり子先生は、ゆみに言った。
「女の子同士で」
「ううん、良明君と一緒に行きたい!」
ゆみは、ゆり子先生に言った。
「いいよね?」
ゆみが良明に聞くと、良明は小さく頷いたの
だった。
「先生のお友達の家に、大きな犬が3匹いて
彼らたちとお散歩したりしようって」
ゆり子先生は、ゆみに言った。
「大きな犬なんだけど、おとなしくて良い子
たちなのよね。この間、良明君とは一緒に行
ってきたのよね」
良明は、ゆり子先生に頷いた。
「それ、私が良明君と行く!」
ゆみは、ゆり子先生に言った。
「え?」
「私が良明君と先生の家へ遊びに行く」
良明は、首を横に振った。
「今週末よ、まだ話していないの?」
ゆり子先生は、良明に聞いた。
「何があるの?」
「今度ね、良明君にヒデキ君を誘って、私の
家に遊びに行こうって話なの」
ゆり子先生は、ゆみに説明した。
「そうだ、良明君が言いにくいみたいなら、
ゆみちゃんが代わりにヒデキ君に話してあげ
てもらえないかな?」
ゆり子先生は、ゆみに聞いた。
「後で先生にも謝るわ」
ゆみは、ゆり子先生に言った。
「それじゃ、授業終わるまでの間、ちょっと
職員室に寄っていかない」
ゆみと良明は、職員室の中山ゆり子先生のデ
スクに移動した。
「そういえば、ヒデキ君にお話したの?」
ゆり子先生は、良明に聞いた。
「ヒデキ君?さっき会ったよ」
ゆみは、ゆり子先生に答えた。
「あら、そのときお話したの?」
ゆみは、良明のことを苦笑しながらも、舐め
ようとするのを止めていた。
「お2人さん、どうしたの?」
ゆみと良明は、後ろから中山ゆり子先生に声
を掛けられた。
「あ、ゆり子先生!」
「授業中じゃないの?」
「ライブラリーだったんだけど、私たち騒い
だから、先生に追い出されちゃったの」
ゆみは、中山ゆり子先生に説明した。
「あら、それはだめじゃないの」
「ね、どこに行くの?」
ゆみは、良明の後を追っかけて行くと、1階
の職員室前に出た。
「ね、また怒られちゃうよ」
職員室前のコルクボードには、いろいろな地
域情報などのポスターが貼り出されていた。
「良明君、これ美味しそうだね」
ゆみは、ドーナッツ屋のポスターを見つけて
良明に言った。良明は、ゆみの指差したドー
ナッツの写真を舐めようとした。
「美味しそうだけど、写真舐めちゃだめよ」
「あーあ、怒られちゃった」
ゆみは、良明の顔を見た。良明の方は、そん
なことはお構いなしに、廊下の脇にある階段
室へと下っていた。
「良明君、どこに行くの?」
ゆみは、良明のことを追っかけた。
「先生、出てきてくれるかもしれないし、廊
下にいたほうが良いかもよ」
ゆみは、良明の後を追いかけたが、良明はど
んどん階段を下っていってしまう。
「ねえ、待ってよ」
「あ、コラ!良明君」
今度は、良明が結んであったポニーテールの
ヘアゴムを外して持って、書棚の奥へと逃げ
ていった。
「良明君、待ちなさい!」
ゆみは、良明のことを追っかけた。
「オーライ、ユーガイズ。ゴーアウト」
先生は、ゆみと良明のことを捕まえると、教
室の外に追い出されてしまった。
「そこの廊下に立っていなさい」
先生は、ライブラリーのドアを閉めた。
「静かにしようね」
ゆみは、良明に小声で言った。
「どの本が良いかな」
ゆみは、英語がわからない良明でも読みやす
そうな本を探してあげていた。そのゆみの後
ろから、良明がポニーテールに薄い雑誌をぶ
ら下げた。
「キャ、なに」
ゆみは、自分の髪を抑えながら、後ろを振り
返って、良明のことを見た。
「やだ、良明君ったら」
ゆみは、思わずまた声をあげてしまった。
「静かにしなきゃ」
良明は、2冊の本でゆみの頭を挟み込んだ。
「やだ、ちょっとなになに」
ゆみは、思わず笑ってしまった。
今度は、良明は、ゆみのポニーテールにして
いる長い髪に本を結びつけようとしていた。
「結べないよ」
ゆみは、また大きな声を出してしまった。
「ゆみ、ビークワエット!」
ゆみは、先生に怒られてしまった。
良明は、書棚から本を1冊取ると、ゆみの頭
の上に乗せた。
「え、なに?」
ゆみは、頭の上に乗せられた本を手に取って
思わず笑ってしまった。
「あ、静かにしなきゃ」
ゆみは、図書室の周りの視線を感じて自分と
良明に言い聞かせていた。良明の方は、周り
の視線など全くお構いなしに、またゆみの頭
に本を乗せた。
「やだ、なになに?」
「好きな本を書棚から探して読んで。読みき
れなかったら持ち帰って、来週までに感想文
を書いてきてください」
先生は、遅れてきたゆみたちに授業の内容を
説明した。
「好きな本を探していいって」
ゆみは、良明の手を引いて書棚の方に連れて
いき、良明と本を眺めていた。
「どれか読みたい本ある?」
ゆみは、良明に聞いた。
「英語わからなくても、絵本とかもあるよ」
「ゆみちゃん、彼は?」
「良明君、うちのクラスの新入生」
ゆみは、ライブラリーの先生に聞かれて、良
明のことを紹介した。
いつも、この時間はミスタールビンの授業に
出ているので、良明にとっては、初めてのラ
イブラリーの授業だった。
「ようこそ、ライブラリーの授業へ」
ライブラリーというのは図書館のことで、書
籍がいっぱい保管されている学校の図書室で
の授業のことだった。
「もう授業始まってるから、静かに入ろう」
ゆみは、教室の表で良明に言った。
「エクスキューズミー」
ゆみは、良明の手を引いて、静かに教室の中
へ入って、シャロルの横に座った。
「どうしたの、ミスタールビンは?」
「風邪でお休み」
ゆみは、シャロルに小声で答えた。
「そしたら今から読書して、来週までに感想
文を提出してください」
先生は、クラスの皆に伝えた。
姉の祥恵は、ゆみに言った。
「迷子にならないでよ」
祥恵も、ゆみの手をしっかり握り返しながら
答えた。初めてのフランスでいきなり妹が迷
子になって、姉妹がバラバラになってしまっ
たら大変だ。
「これからどうするの?」
「まずレンタカーを借りて、出来上がったヨ
ットが置いてある造船所に向かいましょう」
祥恵は、ゆみに言った。
「造船所って遠いの?」
ゆみは、姉と日本から飛行機でフランスの空
港に降り立った。
「いよいよ、ヨットで世界じゅうをクルージ
ングするんだね」
「お母さんも私たちと一緒にクルージングし
たかったな」
ゆみは、小さい頃、自分が生まれたニューヨ
ーク以来、初めての外国の地にしっかり姉の
手を握りしめていた。
「ゆみは、いつまでも甘えていないで、もう
少しお母さんから自立しなさいよ」
ゆみが良明をみると、良明は首を振った。
「私と一緒にライブラリーに出るって」
ゆみは、ヒデキに答えた。
「良明君も、私と同じアスター先生のクラス
だから、ライブラリーに出るわ」
ゆみは、ヒデキに言うと、良明と2人でライ
ブラリー室に急いだ。
「良明っていつもゆみちゃんと一緒だよな」
ヒデキは、ゆみと一緒にいる良明の姿を悔や
しそうに眺めていた。
「ミスタールビンお休みだから、私たちは、
これからライブラリー室に行くの」
「俺ら、ここで自習するよ」
ヒデキは、ゆみに言った。
「そう。それじゃ、私たちは遅刻しちゃうか
ら行くね」
ゆみは、良明を連れて向かおうとした。
「一緒に自習していこうよ」
ヒデキは、ゆみを呼び止めた。
「私たちは、クラスの授業があるもの」
「じゃ、良明だけでも自習していけば」